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猛暑に注意を
note.com/rshimada
日本の数学者、特に有名な数学者(例えば日本数学会の春季賞,秋季賞の受賞者やICM 招待講演者)は少数の特定有名高校の出身者に偏っています。 東大や京大の学部入学者がそういう高校に偏っているということを考慮してもなお,不自然なほどに偏っていると思われます。 これは東大数理の教員によっても指摘されています(以下のリンク先参照)。 この記事はなぜこんなことが起こるのかということを自分の経験を元に考察するものです。 典型的な数学者像私が数学者になるまでの間に触れてきた数学者像、特に優秀な数学者像も「特定の有名高校出身の早熟な男性」といったものでした。 事実としてそういう人が多いのである程度はしょうがないのかも知れませんが、私にはこういったステレオタイプがさらに偏りを加速させているように見えます。 実際「あそこは天才の行くところだから」と言って数学科への進学を諦めた知り合いは東大の中でさえ多くいまし
東京大学本部ダイバーシティ推進課は「なぜ東京大学には女性が少ないのか?」という問いを学内に掲出していたそうです。 こういう特定の属性にのみ存在する社会的な外圧を可視化する取り組みはとても重要だと思います。 一方で東大本部の貧困に対する取り組みは不十分というか、何もしてないのではないかという印象です。 それにも関わらず授業料値上げを検討しているということですが、まずは貧困層への支援強化が先だろうと強く思います。 東京大学には学生相談所というのがあって、私自身も利用したことがあります。 しかし貧困に由来する問題に関しては対応できないということでした。 私はこの状況を改善してもらうために相談員に直談判したことがあります。 そこで言われたのが「それって需要ありますか?」ということでした。 要するに相談所への貧困に由来する問題の相談は少ないということのようです。 実際「東京大学2021年度(第71回
上の記事で大学時代について少し触れましたが、 ここではもう少し具体的なことを書いていきたいと思います。 五月祭東大の学園祭は年に二度あるのですが、最初の方を五月祭と言います。 名前の通りこれは五月に開かれ、国内でも屈指の規模の学園祭だと思います。 五月祭の出店はサークルか一二年生が主体となっているものが多いんじゃないかと思います。 私が一年生のときもクラスで出店することは半強制的なものだった印象です。 こういう出し物は正直苦手なのですが、一方で責任を果たさず自分の目的(勉強)だけやるのはよくないという謎の使命感があって、 結構ちゃんと手伝った記憶があります。 五月祭で得た売り上げはクラスのものにしてもよいということで、うちも多少の利益があったんじゃないかと思います。 この利益を一人一人に返すクラスもありますが、自分のところはクラス旅行の資金の一部にするということになった気がします。 当然私
大変な反響をいただき、「先週もっともスキされた記事の1つ」に選ばれました。 また多くの「サポート」も頂き、ありがたい限りです。 (恥ずかしながら、noteにこういう機能があることを知りませんでした。) 頂いたコメントも読ませてもらい、noteを含めたSNSで発信することの意義について改めて考えました。 まず上の記事にも書いた通り「次の世代を励まし、生活保護制度や大学・大学院の問題点を明らかにすること」がその一つだと思います。 実際「次の世代」の方からも連絡を頂いていて、私はまだ道半ばであるものの、ロールモデルとしての役割を果たせたことを嬉しく思っています。 そしてもう一つ「社会の溜飲を下げる」という意義もあるのではないかということに気がつきました。 私の意見は時に過激ですが、こうした意見にも共感するコメントを多く頂きました。 つまり私と同じような怒りを結構たくさんの人が持っているということ
大学院入試東大の他の大学院はよく知りませんが、東大数学科の院はかなり難関で、内部生でも半分落ちると言われています。 もし大学院入試に落ちてしまうと、留年するしかなくなり、そうすると授業料免除と奨学金は止まり、大学の寮は追い出されます。 そういう事態を恐れてだいぶ貯金していたとはいえ、流石に生活が成り立たなくなるでしょう。 だから院試の対策は十分行う必要がありました。 でも正直、大学受験の時ほどではないですが、これは不毛な勉強だったと思います。 この時勉強したことは、数学者になるためには大して役に立ちませんでした。 対策の甲斐あって、院試も無事合格していました。 数学を続けられるか否かの瀬戸際はもう何度も経験していましたが、全く慣れるものではありませんでした。 大学院での経済的支援私が選んだ専門は「数論幾何学」というもので、数学でも屈指の勉強が大変な分野です。 数学の中でも例えば解析系なら学
数学科の授業にはほとんど出られなかった数学科に入れたから数学の勉強だけしていればいい、というわけでもありませんでした。 私の場合、相当時間アルバイトをしなければならなかったのです。 運良く給料のいい仕事を見つけられたので、必死で働きました。 そのおかげで生活費だけでなく、授業料免除が通らなかった時のためのお金や大学院進学費用も貯めることができました。 一方で、数学科の授業はほとんど出る暇がありませんでした。 そもそも大学のカリキュラムは学生が長時間アルバイトすることを想定していないのです。 学費や生活費を稼ぎながら授業に出るというのは無理難題です。 数学科の授業は出席を取らないことが救いでした。 試験で点数さえ取れれば、単位を取得することができます。 と言っても、その試験がかなり難しいのですが。 授業に出られない代わり、数学書を持ち歩いてずっと読んでいました。 その結果全ての試験に合格する
別世界の人たち東大に入ってから出会った人たちの多くは、まるで別世界の人のようでした。 彼ら彼女らの恵まれ方は、私からすれば、到底同じ国に生まれ育ったとは思えないような水準でした。 でも残念ながら、彼ら彼女らは想像していたほど優秀ではありませんでした。 この事実は私をとても落胆させ、怒らせました。 そういう学生たちとの学びは、本当に最悪な経験でした。 高校生の頃、私は自分の置かれている状況を同級生には話しませんでした。 自分も高校生なのに、この人たちはまだ高校生だからこういう話をしてもしょうがないと思っていました。 一方で、18歳になったらもう十分大人なんだから、誰もが他者や社会の抱える問題に関心を持つべきだと考えていました。 でも、そう考えていたのはどうやら私だけだったようです。 東大の人たちはもう少し志がある人たちだと思っていましたが、結局自分のことしか考えていないような人にしか出会いま
何があっても勉強だけはやめちゃいけない既に書いたことは私に起こったことのごく一部で、私が夢を諦める理由としては十分すぎる困難が他にもたくさん生じました。 でも私は、何があっても勉強だけはやめてはいけないと思いました。 これをやめたら、本当に終わってしまうという気がしました。 だから、小さな畳の部屋に折りたたみ式のテーブルと丸イスを置いて、とにかく机にかじりついていました。 予備校代もなかったので、自分で勉強計画を立てて実行しました。 好きな数学の勉強を我慢して、文系科目の勉強にもかなり時間を割きました。 その結果、模試で良い成績を取ることができたので、それを地元の自習塾に持って行って特待生で入れてもらいました。 ここは自習スペースとしてしか使いませんでしたが、家は電気が止まるような状況だったので、勉強するには大変ありがたい環境でした。 受験直前の東大模試の結果無事合格、しかし…実は、進学費
生活保護世帯と世帯分離生活保護世帯は大学進学できないという事実を知った時、打ちのめされたような気分になりました。 親も学校の先生もこの問題について理解しておらず、自分一人で抱える必要がありました。 だから「世帯分離」というのをすれば進学できるという情報にも自力で辿り着きました。 安心した反面、自分が大学進学することにより家計にダメージを与えざるを得ないという事実に気付かされました。 家計へのダメージということで言えば、中学校の時に通った塾や、大学進学のための参考書代・模試代も大きな負担だったと思います。 中学の時の塾は、破格の安さだったはずですが、それでも月謝を滞納していました。 それもそのはずで、そもそも生活保護世帯にはこうした教育のためのお金は十分には支給されていないのです。 だから、私のために、母親は無理を強いられ続けました。 その限界が来たのは高校2年生の時でした。 ある日、私宛に
勉強から研究へ大学院ではいよいよ研究をすることになります。 自分はそこそこ勉強ができるということは知っていましたが、研究能力については未知でした。 それでも、私に出来るのは精一杯やるということだけでした。 勉強と研究は結構違っていて、その切り替えがうまくできずに失敗する人も多いという気がします。 私はこの違いを理解していたからか、案外スムーズに研究に移行できたと思います。 大学院を修了するまでに、私は8本の論文(内4本は出版済み)を書き、16回の口頭発表(内5回は国外)をこなしました。 数論幾何では、これはかなり多い方だと思います。 例えば⑥で出てきた教員は修了時に論文4本(内2本出版済み)で口頭発表は5回でした。 これらの業績により、無事博士号を取得し研究科長賞をもらうこともできました。 研究職の仕事も得て、今も数学の研究をするのが仕事です。 全ては15の時に始まった私が大学院修了までの
生活保護世帯から東大に進学し、数学者になりました。このアカウントでは自分の経験を共有し、次の世代を励ますことと既存の社会制度の問題点を指摘することを目的とします。
勉強を始めるきっかけ生活保護世帯になってからしばらくは、ありがたいことに、食べ物に困ることは無くなりました。 でも、今思えば、ただ生かされているだけだったようにも感じます。 私が生まれ育った地域は貧しい家庭も多く、中学には(私自身も含め)素行の悪い生徒が沢山いました。 警察のお世話になるような事件は日常茶飯事で、少年院まで行った同級生も複数人います。 そんな環境で私が勉強を始めたきっかけは全くの偶然でした。 中学3年生になる直前、友人に地元の小さな個人塾へ誘われました。 そこの体験授業で、英語の授業を受けました。 先生は「be動詞」の説明をしていました。 私はそれを「B動詞」だと勘違いし、 「先生、B動詞とはなんですか?A動詞やC動詞もあるんですか?」 と聞きました。それくらい勉強が出来ませんでした。 当然、私は笑いものにされ、大変な屈辱を味わいました。 一方で、私は今まで必ず受けた屈辱を
最近東大で博士号を取りました。専門は数学です。 数学の道を志すと決めたのは15歳のときでした。 この時の私は生活保護受給世帯で暮らしており、他の人より多くの困難を覚悟してこの決断をしました。 そして、実際に、ここまで来るには多くの困難がありました。 ここではその困難についてと、私がそれをどう打開したのかについてを書きたいと思います。 本稿は私の経験を共有することにより、次の世代を励まし、生活保護制度や大学・大学院の問題点を明らかにすることを目指して書いています。 一方で、私の事例がこれとは逆の使われ方をすることがあります。 例えば「生活保護世帯出身でも努力すれば大学に行ける。行けない奴は努力が足りないんだ。」というような主張の根拠として使われることがあります。 このような使われ方は、私の意図するところとは全く異なります。 むしろ私は、どんなに努力してもくじ引きで当たりを引かなければ前に進め
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