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解釈を超えて(1)
穏やかな年の瀬である。ありがたいことだ。今年もいろいろあった。 ブログの方は相変わらず一方的に進行... 穏やかな年の瀬である。ありがたいことだ。今年もいろいろあった。 ブログの方は相変わらず一方的に進行していく。 解釈を超えて、というテーマでしばらくまとめてみる。 私にとっての解釈(もちろん精神分析の概念としてのそれ、である)は、誤解を恐れずに言えば、一種の背後霊のような存在である。つまり私が治療中にどのような介入を行ったとしても、つねに「それは解釈なのか?暗示になってはいないか?」と問いかける声がどこかから聞こえてくる。 「精神分析療法の道(1919)」において、フロイトは「分析という純金に,直接暗示という銅を合金するような技法の修正や工夫を行わざるを得なくなるであろう」と論じる。ここでの「分析」とは解釈的な介入のことだと考えていいであろう。そしてこの「解釈以外は分析でない」というメッセージは後世に強いインパクトを与えたといえる。現在の精神分析においてもそうだといっていいだろう。