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『D.C.〜ダ・カーポ〜』論 失われた"Fine"を求めて
初出:Game Deep # Vol.5(2003年9月7日 KeyMix 5th Mix にて初売り) 『D.C.〜ダ・カーポ〜』(以下、『D... 初出:Game Deep # Vol.5(2003年9月7日 KeyMix 5th Mix にて初売り) 『D.C.〜ダ・カーポ〜』(以下、『D.C.』)に対する言及として典型的なものは、所謂ギャルゲーの要素を様々なところから引いているが、核となるものがなく、成功していないと言われることである。それは、『AIR』であれば"SUMMER"によって提示され、"DREAM"によって繰り返される物語のバックボーンがPLに沈殿していることである。その定着が図られた後、"AIR"が改めて開始される。それでは、同様の「核」は本当に『D.C.』において存在しないのだろうか。 『D.C.』において常に意識せざるを得ないのは、他のギャルゲー・アニメに対する言及である。これは昨今「同人」とされ軽く見なされるが、古典文学においては至極当然のことであった。例えば、和歌や連歌における「本歌取り」、能の「本説」など
2006/10/31 リンク