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ディザInDesignブログ: わたしが「日本語の乱れ」を気にしなくなった理由
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ディザInDesignブログ: わたしが「日本語の乱れ」を気にしなくなった理由
わたしが「日本語の乱れ」を気にしなくなった理由 それはカルチャーショックでした。言葉は時代によって... わたしが「日本語の乱れ」を気にしなくなった理由 それはカルチャーショックでした。言葉は時代によって変わるもの、「新しい」という言葉も、今は「あたらしい」というけれど、昔は「あらたしい」と言っていたこと(だから「新たに」という言葉は昔のまま変わっていない)は知識として知っていたのですが、それでも「頭痛が痛い」だの「的を得る」はおかしいし、「あり得ない」の反対語は「ありえる」ではなく「ありうる」だろうが、「ありえる」だと人魚姫じゃねえか、と言っていました。 その考えが変わったのは大学生のとき。能楽のサークルに入ってまして、その流れで古典に目覚め、色々読み漁っていたときのこと。 式亭三馬の「浮世床」を読んでいたら、自分の無知に頭を殴られたぐらいの衝撃を受けたのでした。その一説がこれ(引用は國民圖書株式会社発行『近代日本文學大系第十七巻』昭和2年)。初編巻之上にあります。しだらがないトいふ事を、『