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「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子: シンジの“ほにゃらら”賛歌
「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子 やおい、という言葉がある。「ヤマなし(山場なし)、オチ... 「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子 やおい、という言葉がある。「ヤマなし(山場なし)、オチなし(落ちなし)、イミなし(意味なし)」という意味だ。本来は同性愛をテーマにした漫画などのことを総称してやおいというが、ここではその語源のとおりの意味合いで使用する。 山下敦弘の映画「もらとりあむタマ子」にはすがすがしいまでに「やおい」である。ヤマもなければ、オチもなく、意味・・・は少しある。といっても主人公がモラトリアムを脱するというテーマは映画を終わらせるための方便でしかなく、山下や脚本の向井康介が人がモラトリアムから脱することの重要さを訴えたかった(笑)などあるわけもない。 やはりこの映画は「やおい」である。映画の作劇法としての「やおい」がなぜすがすがしいかというと、映画が「単線的」ではないということにつきる。「単線的」とはブレヒトの言葉で 一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考
2013/12/15 リンク