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『本質なんかない。縁起だー!(『正法眼蔵を読む』その1)』
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『本質なんかない。縁起だー!(『正法眼蔵を読む』その1)』
先日、「強烈に面白い」と書いた南直哉さんの 『正法眼蔵を読む 存在するとはどういうことか』(講談社... 先日、「強烈に面白い」と書いた南直哉さんの 『正法眼蔵を読む 存在するとはどういうことか』(講談社メチエ)。 道元禅師の『正法眼蔵』を南さんが丁寧に解釈していって、 解釈部分は論理クリアでわかるのだが、 なにせ『正法眼蔵』の引用部分が涙目になる難しさ・・・。 私は『正法眼蔵』自体はもちろん解説書も昔挫折しているので、 知識ゼロだったのだけれど、なぜこの本を手に取ったかというと、 南さんがお釈迦さまと道元さんによって「生きる」方にチップを張ったという以上、 お釈迦さまと道元さんは一直線で繋がるだろう、とのヤマ勘からだった。 道元禅師 その勘は大当たりだった。同書を読むかぎり。 ところが、曹洞宗での従来の読まれ方では、そうではないらしいのだ。 南さんは、従来の読まれ方を徹底的にひっくり返す。 その体の張り方が強烈に面白いのだ。 その”従来の読まれ方”を、同書では 「本証妙修(ほんしょうみょうし