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『光州の虐殺を伝えた日本のプレスー映画「タクシー運転手」のヒンツペーターだけではなかった』
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『光州の虐殺を伝えた日本のプレスー映画「タクシー運転手」のヒンツペーターだけではなかった』
1979年10月26日午後8時前、大統領官邸の西側に隣接する宴会場で朴正煕パクチョンヒ大統領が銃撃され死亡した... 1979年10月26日午後8時前、大統領官邸の西側に隣接する宴会場で朴正煕パクチョンヒ大統領が銃撃され死亡した。撃ったのは軍事独裁政権を支えてきた側近の一人金載圭キムジェギュ中央情報部(KCIA)部長だった。 この大統領の暗殺直後から、それまで反独裁運動をしてきた人々が政治・社会活動の表舞台に姿を現わした。日本の新聞などはこれを「ソウルの春」と報じた。しかし、その背後では、大統領殺害事件の捜査に当たった保安司令官全斗煥チョンドゥファン少将が勢力を固め、12月12日に「粛軍クーデター」を起こして実権を掌握した。民主化を危険視する軍の中堅幹部のグループ「ハナ会」を中心とするこの勢力は「新軍部」と呼ばれた。そうした中で、軍事独裁の再登場に反発する学生・市民の民主化要求の声はますます高まった。新軍部は1980年5月17日に全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三キムヨンサムや金大中キムデ