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村上嘉英 「近世琉球における中国語学習の様態」 - 書籍之海 漂流記
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村上嘉英 「近世琉球における中国語学習の様態」 - 書籍之海 漂流記
『東方学』41、1971年3月、同誌91-100頁。 有名な唐栄の住民(久米三十六姓)は、明初といわれる中国か... 『東方学』41、1971年3月、同誌91-100頁。 有名な唐栄の住民(久米三十六姓)は、明初といわれる中国からの移住の後、次第に中国語を忘れていっていたのだが、18世紀初(1718年)に国家制度としての中国語教育体制が整う(明倫堂の設置)。ここで教えられるのは彼ら本来の母語である福建語ではなく北京官話であった由。 因みに明倫堂の設置を提起したのは程順則であった。またこの年1718年は蔡溫が琉球国の統治の最高責任者の地位にあった時期である。蔡溫は冊封使としてこの前々年に清へ出発し、この年に帰還している。二人とも久米三十六姓の出身である。