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橋本治『「自然主義」と呼ばれたもの達』書評 「外来の流行」あてはめた不幸|好書好日
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橋本治『「自然主義」と呼ばれたもの達』書評 「外来の流行」あてはめた不幸|好書好日
「自然主義」と呼ばれたもの達―失われた近代を求めて2 [著]橋本治 あなたが外国語に堪能で、最近は日... 「自然主義」と呼ばれたもの達―失われた近代を求めて2 [著]橋本治 あなたが外国語に堪能で、最近は日本語のほうがおぼつかないくらいだ、とする。それでも、故郷の信州の風景とそこで育んだ「私」の心情を書きたい衝動が内に湧いたとき、外国語では決して触れられないものを発見するはずだ。 これが、現代日本語そのものの生成過程だったと知ると驚く。母国語そのものが、そういう渇きや不備を抱えていて、その解消に、ある人々が苦闘した時代が、ほんの百年ほど昔にあった。そしてそのことを、今の私たちはなんにも知らないし、教えられない。 だから橋本治が、書かなければならなかった。 日本は長らく、公文書には漢文つまり中国語を使い、日本固有の物語を著すのには、漢字を音で一字一字当ててみたり、やがて仮名との「和漢混淆(こんこう)文」をつくったり……と、書き言葉と話し言葉は長らく一致しなかった。「翻訳」ではなく「訓読み」という