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関口涼子『カタストロフ前夜』――声はわたし(たち)にも触れる|じんぶん堂
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関口涼子『カタストロフ前夜』――声はわたし(たち)にも触れる|じんぶん堂
記事:明石書店 関口涼子『カタストロフ前夜~パリで3・11を経験すること』(明石書店) 書籍情報はこち... 記事:明石書店 関口涼子『カタストロフ前夜~パリで3・11を経験すること』(明石書店) 書籍情報はこちら あれから9年後にこのテクストを読めてよかったと思う。フランス語で書かれた3冊の著作を、著者自身が日本語に翻訳したものであることもまた。 カタストロフの起点――「これは偶然ではない」 最初の「これは偶然ではない」は3.11の前日から書き出された記録だ。9年前の東日本大震災をめぐる出来事について、パリに住んでいた著者が考え、問いながら、ことばを書きつける。そのことばを読むことで読者は自分のなかですでに失われ、風化して朽ちてしまった記憶の気配に、はっとする。問いがふくらむ。著者がパリにいたため立ちあえなかった出来事に、では、東京にいた者は立ちあえたのか。京都にいた者は、福岡にいた者は、北海道に……。それは物理的な距離の問題なのか。そして考える──そもそも、立ちあう、とはどういうことかと。 海