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不可能に向けて書くこと:長野まゆみ『テレヴィジョン・シティ』論 - of deadlines and silence
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不可能に向けて書くこと:長野まゆみ『テレヴィジョン・シティ』論 - of deadlines and silence
長野まゆみという作家がいる。1988年に『少年アリス』で文藝賞を受賞、その後は硬質な文体と特徴的な旧... 長野まゆみという作家がいる。1988年に『少年アリス』で文藝賞を受賞、その後は硬質な文体と特徴的な旧字体とで、耽美的な世界を描き人気を博した。初期の小説は幻想小説のような作風で、兄弟や親友同士の精神的なつながりを主題としていたのが、のちには肉体的なつながりを露骨に描くものも増えた。いまは「カルトローレ」のような初期とはまた異なるファンタジーを展開させている。いわゆるボーイズラブ小説としての受容(需要?)はこの作家にとってすでに過去のものなのかもしれない。ところが私は、まさにこの長野まゆみの初期作品のファンであり、この作品群に特別な思い入れを持っている者の一人である。この小論では、そのなかでもファンから一定の評価を受ける長編小説『テレヴィジョン・シティ』について語り、その可能性(あるいは不可能性)について提示することを試みる。 なお、この作品の初出1992年であるが、本稿の考察は1996年発