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第11回 キャラ変わりの原則 | 日本語社会 のぞきキャラくり(定延 利之) | 三省堂 ことばのコラム
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第11回 キャラ変わりの原則 | 日本語社会 のぞきキャラくり(定延 利之) | 三省堂 ことばのコラム
「遊び」の文脈では、キャラクタの変化ははずかしいことではないと前回述べた。だが、「遊び」だからと... 「遊び」の文脈では、キャラクタの変化ははずかしいことではないと前回述べた。だが、「遊び」だからといって、キャラクタの変化が決して無秩序に生じるわけではない。キャラクタの変化は原則として、コミュニケーション行動と連動する形で生じる。 たとえば椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ(上)』(1981)には、「そこでおれは静かに立ちあがった。もう≪ぼく≫なんて言っていられない。」と、主人公(椎名氏)が「ぼく」キャラから「おれ」キャラへ変わる場面がある。このキャラクタの変化が生じるのは、主人公(椎名氏)が、それまで会話していた相手の態度に腹を立て、立ち上がってアクションを起こそうとすればこそ、つまり暴力的なコミュニケーション行動に出ようとすればこそだろう。 同作品には、再び自称詞が「おれ」から「ぼく」に変化する部分があり、これについて椎名氏は「男と女の愛の物語を書こうと思うから」と説明されている。愛の物語