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クオリアなんて考える必要があるのだろうか - 粉末@それは風のように(日記)
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クオリアなんて考える必要があるのだろうかより全文転載(一部改変) クオリアというのはいわゆる"精神活... クオリアなんて考える必要があるのだろうかより全文転載(一部改変) クオリアというのはいわゆる"精神活動"を表す用語に過ぎない気がする.ある知覚刺激における心理的表象こそがクオリアじゃないのか.いわゆる現象的意識というのは,精神活動によってもたらされるものであって,これを考える場合,つまるところは精神活動は如何にして発現されるかという話じゃないか.んで,ペンローズさんなんかは,波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)を提唱してるが,*1これが重要なのは,"システムの複雑さ"であり,"システムの複雑さ"こそが,ゲーデルの不完全性原理のような非論理構造を有する要因であり,それこそが"精神活動"を生むのだと思う. クオリア(例えば「赤さ」とかさ)って主観の追究であり,それは典型的な哲学における議論なんだよね.そして,観念の追究は形而上学に他ならないだろう.そんな,形而上学的ないかにも