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『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
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『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍... 『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍第203設営隊(岩下久哉技術少佐・ハルマヘラ島で基地設営)の西部ニューギニア・ソロン派遣隊長だった佐用泰司元海軍技術大尉によれば、「海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐・昭和18年11月15日海軍横須賀施設部編成)」は、“玉砕設営隊”の第一号だった。一部およそ130名がハルマヘラ島に取り残されたが、約1,000名の隊員が昭和19(1944)年6~7月、ビアク(Biak)島で戦死した。 ちなみに同書によれば、海軍設営隊の母体の前身は「海軍施設本部(昭和16年8月1日以前は海軍建築局)」並びに各軍港に置かれた「海軍施設部(元海軍建築部)」。太平洋戦争開戦直前(昭和16年10月~11月)に編成された「特設設営班」が後の「特設設営隊」へと発展した。一方、海外ではトラック諸島、ラバウル、シンガポー