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私たちが日本語を「外国語」として学びなおしたら…いったい何が起きる?(佐々木 敦)
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私たちが日本語を「外国語」として学びなおしたら…いったい何が起きる? 【新連載「ことばの再履修」第... 私たちが日本語を「外国語」として学びなおしたら…いったい何が起きる? 【新連載「ことばの再履修」第1回】 「母国語の外」から「他人の目線」へ もう一つ、引用をしておきます。ドイツ在住で、日本語とドイツ語の両方で小説等を発表している作家、多和田葉子のエッセイからです。 或る言語で小説を書くということは、その言語が現在多くの人によって使われている姿をなるべく真似するということではない。同時代の人たちが美しいと感じている姿をなぞってみせるということでもない。むしろ、その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出して見せることの方が重要だろう。そのことによって言語表現の可能性と不可能性という問題に迫るためには、母語の外部に出ることが一つの有力な戦略になる。もちろん、外に出る方法はいろいろあり、外国語の中に入ってみるというのは、そのうちの一つの方法に過ぎない。(『エクソフォニー 母語の外