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佐々木信綱 - Wikipedia
佐々木 信綱(ささき のぶつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。左近将監。... 佐々木 信綱(ささき のぶつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。左近将監。右衛門尉。近江国守護。佐々木四郎ともいう。佐々木定綱の四男。法名は虚仮(旧字体:虛假)。 生涯[編集] 養和元年(1181年)頃、後に近江国守護を務める佐々木定綱の四男として誕生。建保2年(1214年)には左近衛将監を務めており、同年1月22日や7月27日の『吾妻鏡』にその名が見られる。 承久3年(1221年)6月14日、承久の乱に鎌倉幕府軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男・重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄・広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦