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太田資始 - Wikipedia
太田 資始(おおた すけもと)は、江戸時代後期の大名、老中。遠江国掛川藩5代藩主。官位は従四位下・侍... 太田 資始(おおた すけもと)は、江戸時代後期の大名、老中。遠江国掛川藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、備後守、備中守。掛川藩太田家9代。 生涯[編集] 近江国宮川藩主・堀田正穀の三男。初名は正寛。文化7年(1810年)8月11日、太田資言の末期養子(娘婿)となり、遠江掛川藩主を継ぐ。文化9年(1812年)9月15日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文化10年12月16日(1814年2月5日)、従五位下・備中守に叙任する。文政元年(1818年)10月24日、奏者番に就任する。 水野忠邦との確執[編集] 11代将軍・徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に老中となったが、老中首座の水野忠邦と合わず、上知令、出羽国庄内藩転封、倹約令などにその都度反対を標榜した。また、忠邦を幕閣を追放せんとして策謀をめぐらし、水戸に帰国していた常陸国水戸藩主・徳川斉昭に