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尾口村 - Wikipedia
古くは、縄文時代中期中葉の古府式期につくられた遺跡が女原と尾添で発掘されている。 しかし、水稲が伝... 古くは、縄文時代中期中葉の古府式期につくられた遺跡が女原と尾添で発掘されている。 しかし、水稲が伝播したころから水田を作りやすい平野部に人が移ったため、過疎が進んでいく。その後、一帯には人々が集団生活を送っていた形跡はほとんどなく、史料の残る中世にまで歴史を譲ることとなる。 中世になると、日本三霊山のひとつ白山の杣取権(白山禅頂の社殿造営権)を巡って加賀・越前・飛騨の村で争いがたびたび起こった。1655年には加賀・越前両藩の間で争いが起こり、徳川幕府が仲裁をおこなうこととなる。最終的には、加賀藩主前田綱紀の岳父保科正之の斡旋によって1668年から白山麓十八ヶ村(東谷11ヶ村:瀬戸・女原・二口・五味島・釜谷・鴇ヶ谷・深瀬・下田原・島・風嵐・牛首、西谷5ヶ村:杖・小原・丸山・須納谷・新保、尾添谷:荒谷・尾添)は天領となった。 明治維新を迎え、白山麓十八ヶ村は1870年(明治3年)12月に本保県