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山本鼎 - Wikipedia
1882年(明治15年)10月14日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれ... 1882年(明治15年)10月14日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれた[1]。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京浅草区山谷町に移住した[1]。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井暁雲(虎吉)の住込み徒弟となり[1]、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業[1]、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。 1901年(明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公を終えた[1]鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年(明治35年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した[1][2]。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表[1]、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、