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岩藤思雪 - Wikipedia
岩藤 思雪(いわとう しせつ、本名-新三郎、生年不詳 - 1938年3月28日)は、日本の活動弁士、映画監督、... 岩藤 思雪(いわとう しせつ、本名-新三郎、生年不詳 - 1938年3月28日)は、日本の活動弁士、映画監督、編集技師である。日本映画の黎明期にインディペンデントな動きをした人物として知られる。 1906年(明治39年)ころ、M・パテー商会に「弁士養成所」主任として入社している。英語の翻訳のできるインテリで、文章も書けたので、活弁用の台本の執筆もした。 その後同社で映画監督としてデビュー、1909年(明治42年)5月23日に「第一文明館」で公開された『日本桜』という作品が記録に残っている。同作の撮影は、その10年後に高松豊次郎の「活動写真資料研究会」の撮影技師となる岩岡巽、主演は新派の俳優関根達発であった。翌月25日には牛込区通寺町(現在の新宿区神楽坂6丁目)の「牛込文明館」で公開された『新不如帰』を監督している。同作は日本初のカットバックを使用した作品とされる[1]。また、それと前後して