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平良市 - Wikipedia
1390年、宮古島の豪族・与那覇勢頭豊見親真佐久(よなはせどとぅゆみゃまさく)が中山王察度に初めて朝... 1390年、宮古島の豪族・与那覇勢頭豊見親真佐久(よなはせどとぅゆみゃまさく)が中山王察度に初めて朝貢を行ったとされる。「豊見親」(とぅゆみゃ)とは名高き領主という意味で、宮古諸島の地域の豪族をまとめる人物に称号として与えられた。 1500年に、八重山でオヤケアカハチをリーダーにしてオヤケアカハチの乱が起きると、その鎮圧に功績をあげた宮古島の豪族・仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)は、琉球王府の尚円王より宮古島の頭職に任じられた。 仲宗根豊見親の死後、頭職を継承した長男・仲屋金盛(なかやかなもり)は、1532年、現在の城辺町字友利の豪族・金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親を殺害(大嶽城の変)。これを機に、琉球国王の命令で「豊見親」の称号は廃止され、代わって琉球王府が任命する頭職が統治に当たることになった。これを以て、宮古諸島と八重山諸島は実質的に琉球王国の支配下に入ったとされる。