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徳川昭武 - Wikipedia
京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とく... 京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とくがわ あきたけ、旧字体:德川 昭武、1853年〈嘉永6年〉10月26日 - 1910年〈明治43年〉7月3日[1])は、幕末から明治にかけての大名、華族。位階勲等は従一位勲一等。清水徳川家第6代当主を経て水戸徳川家を継ぎ、水戸藩第11代(最後)の藩主・藩知事を務めた[2]。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男[1](庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる[2]。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)[2]。初名は松平 昭徳(まつだいら あきのり)[注釈 1]。官名の民部大輔に由来して民部公子とも呼ばれた[2][3]。字は子明[2]。号は鑾山(らんざん)[2]。諡号は節公[2]。兄の子篤敬が水戸家を継いで華族の侯爵となり、子の徳川武定は