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足利満詮 - Wikipedia
足利 満詮(あしかが みつあきら)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。室町幕府第2代将軍・足利... 足利 満詮(あしかが みつあきら)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。室町幕府第2代将軍・足利義詮の四男。母は紀良子。第3代将軍・足利義満の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って満詮と名乗る。 生涯[編集] 幼少期に九州にも足利将軍の親族を置く計画があり、満詮はその候補とされたが実現しなかった[1]。 幕閣にあって常に兄を陰から支えるような立場であり、永和4年(1378年)に義満が東寺に出陣した際には数百の兵を率いて参陣している[2]。 生母の紀良子とともに武者小路の小川第に住み、応永9年(1402年)に従三位参議、応永10年(1403年)12月には従二位権大納言と順調な出世を遂げるが、12月7日に小川第にて義満自らの手による剃髪をもって出家し、法名を勝山道智と称した[2]。 応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱の際は、ためらう甥の第4代将軍・義持に対し、早く鎌倉公方
2016/07/09 リンク