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なぜ「公文所」は「政所」になったのか?アップデートし続ける鎌倉幕府 鎌倉殿の時代(12)組織としての鎌倉幕府(後編) | JBpress (ジェイビープレス)
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なぜ「公文所」は「政所」になったのか?アップデートし続ける鎌倉幕府 鎌倉殿の時代(12)組織としての鎌倉幕府(後編) | JBpress (ジェイビープレス)
このように見てくると、鎌倉幕府はもともとベンチャーみたいなものだったことがわかります。仲間と起業... このように見てくると、鎌倉幕府はもともとベンチャーみたいなものだったことがわかります。仲間と起業をするときに、いきなり総務部・経理部・営業部・・・なんて組織図を描いたりしませんよね。というか、最初にそんなことをやっていたら、起業に失敗します。まずは自分たちで営業に動いて、仕事が順調に回るようになってスタッフも増えてきたら、事務の担当とか、必要に応じて決めてゆくことになるでしょう。 鎌倉幕府も同じ。頼朝が武士たちを従えたことによって、武士たちのシフトを調整したり、所領を与えたり、モメ事を調停したり、といった業務が自然に発生します。そうした業務をこなすために、専属の担当者を置くようになり、だんだんスタッフが増えて、新庁舎が増築される。そんな風にして、幕府の骨組みができていったのです。 ところで、「公文所」は1191年(建久2)に、「政所(まんどころ)」と改称されます。そこで教科書では、1191