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慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)
歴史の法則的把握か個人の役割の認知かをめぐるE.. H. カー対I. バーリン論争の再検討から始め, 結局カ... 歴史の法則的把握か個人の役割の認知かをめぐるE.. H. カー対I. バーリン論争の再検討から始め, 結局カーの歴史学は勝者の歴史であり責任の問題が回避されることを述べる。ついでヴィーコを水源とする4つの潮流, (1)コリングウッド, クローチェ, カーへ, (2)ミシュレを経てフェーブル(フランス社会史)へ, (3)ヘルダー, ブレイク, モリス, E.. P. トムソン(イギリス社会史)へ, (4)ホワイト(ポスト・モダニズム)へいく流れを辿り, 民衆としての個人は3番目の流れが解明できることを指摘する。最後に1990年代に日本で現れた「歴史認識問題」と現在の歴史学の危機について論じる。 Beginning by reconsidering the controversy between E. H. Carr and I. Berlin concerning the grasp of