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敵を指導して優勝を逃した1984年の中日・山内一弘監督? - kojitakenの日記
報道番組で今年亡くなった人を回顧する話題が出るようになった。年の瀬だ。 昨夜の『報道ステーション』... 報道番組で今年亡くなった人を回顧する話題が出るようになった。年の瀬だ。 昨夜の『報道ステーション』では、山内一弘、土井正三、三村敏之の元プロ野球監督3氏を偲ぶ特集をしていた。現阪神の金本知憲が広島時代の監督・三村敏之の弔辞を述べていたのも印象深かったが、金本は阪神に移籍なんかしなきゃ良かったのにと、同時に思った。この3人の中でもっとも印象に残ったのは、大毎−阪神−広島の強打者にして、あちこちの球団で監督やコーチを務めた山内一弘氏のエピソードである。 監督としてより、打撃コーチとしての才能に優れていた山内氏は、V9時代後半の巨人や、田淵・掛布を要した70年代半ばの阪神の打撃陣を指導した。どちらかというと守りのチームである歴史が長い阪神だが、1976年には、85年の優勝時と並ぶ強打を発揮した。その打線を指導したのが山内氏だった。 しかし、山内氏が一番やりたかったのは、現役時代にはユニフォームの
2009/12/11 リンク