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研究資料『東山往来』(音で読むか訓で読むか)
ゼミで講読している『東山往来』から。 「私は滅罪のために経典を読誦したいと思います。ところが、経に... ゼミで講読している『東山往来』から。 「私は滅罪のために経典を読誦したいと思います。ところが、経には音読と訓読の両様があります。いずれが勝っている(どちらで読むのがよい)のでしょうか、教えてください!」(『東山往来』第12条、往状) 西洛の檀那が手紙で東山の師僧に問いかけています。お経(漢文)を音読するか訓読するか、平安末期の貴族にとっては、仏から授かる恵みをいかにして得るかという問題、真剣に悩むところであったことでしょう。一方で、日本語研究史の立場から見ると、この問いには漢文(漢字)と日本語との関わり、さらには学びの本質が現れていることに気づくのです。 師僧は答えます。 「上代の師達は『音(で読む)経は多くの義を含んでいる』と説いています。このように多義によって成る経を訓で読むということは、一つの義に対応する日本語(和言)を選ぶことに外なりません。こうしたわけで、訓経はその功徳(理解)が