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幽体離脱とカフカ――保坂和志の認知モードについて - 翻訳論その他
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幽体離脱とカフカ――保坂和志の認知モードについて - 翻訳論その他
保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。... 保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」というのがそれなのだが、渡部直己「今日の『純粋小説』」によれば、丹生谷貴志が書評で「これを『私』の『幽体離脱』と評している」そうだ。ところで作家本人は――これもやはり渡部直己の指摘にあるけれど――『未明の闘争』の刊行にあわせて行われた磯崎憲一郎との対談(「小説はなぜおもしろいのか」)で、「記憶の中の『私』はかなり『彼』に近い」と語っている。「記憶の中の自分は大体三人称で出てきている。よっぽど正確な記憶の部分じゃないと、一人称では出てきていない」。さらに保坂氏は、若竹千佐子との対談(「人の心は一色ではない」)でも、「考えてみたら、自己イメージって幽体離脱的なもので、『俺』と言った時一人称だけど、人は必ず自己像を外からの目で見ている」と、ま