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クリプキについて|山口尚
クリプキが亡くなったらしい。私はこの哲学者に直接会ったこともないし、彼の考えについても人並みに勉... クリプキが亡くなったらしい。私はこの哲学者に直接会ったこともないし、彼の考えについても人並みに勉強したていどだから、特別な感情はない。他方でクリプキをめぐって書いておきたいことはある。それは私が分析哲学を研究し始めたころ(21世紀初めごろ)の日本のことだ。以下は、クリプキの訃報にふれて思い出される、当時の日本の分析哲学シーンの話である。 21世紀初めごろ、どんな感じだったのか。当時の日本の分析哲学業界では、クリプキの本を読んでいないと分析哲学の話題についていけない、という状況があったと思う。なぜなら、当時はまだ《分析哲学者はみな言語哲学について一定の理解を有していなければならない》という雰囲気があり(これは今やほとんどなくなってしまっている)、そのため言語哲学で画期的な仕事を行なったクリプキの作品は必読書だったからである。その結果、私の世代以前の分析哲学者はクリプキについて一定の共通理解を