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奥羽越列藩同盟
そりゃ、江戸幕府ができて早々は外様と譜代、親藩の意識の差はあったでしょうが、 二百数十年の泰平の世... そりゃ、江戸幕府ができて早々は外様と譜代、親藩の意識の差はあったでしょうが、 二百数十年の泰平の世が続いたおかげで、日本中が事なかれ主義、 ひたすら江戸の世が続けばいいと思っていたのです。 実際、新政府の主力となった薩長土肥ですら、勤皇倒幕で藩全体が 意識統一されていたところはありません。 島津久光や山内容堂が強力な佐幕家だったのはよく知られているところですし、 佐賀藩は藩士の政治活動を一切禁止していました。 長州藩も佐幕派と勤皇派が二大勢力となって権力闘争をしていたのです。 それでもこれらの藩が倒幕勢力の中心たりえたのは、 長崎あたりからの海外情報が比較的入りやすく、 危機意識の高い「志士」が出やすい土壌があったことなどが考えられます。 東北諸藩はこれらの情報から非常に遠く、勤皇攘夷などという思想そのものが ほとんど理解できなかったのではないでしょうか。 徳川慶喜は将軍であったとはいえ、