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大河ドラマでは絶対に描けない…徳川幕府に書き換えられてしまった「関ヶ原の戦い」の真相 「家康の決断」と「劇的な勝利」を描く必要があった
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大河ドラマでは絶対に描けない…徳川幕府に書き換えられてしまった「関ヶ原の戦い」の真相 「家康の決断」と「劇的な勝利」を描く必要があった
日本史上最大の戦い「関ヶ原の戦い」は、半日で決着がついた。歴史家の安藤優一郎さんは「約6時間で徳川... 日本史上最大の戦い「関ヶ原の戦い」は、半日で決着がついた。歴史家の安藤優一郎さんは「約6時間で徳川家康の勝利で終わったが、実際は開戦直後に石田三成らが総崩れになって終わった。勝敗は戦う前から決まっていた」という。安藤さんの著書『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)からお届けする――。 精鋭部隊が真田家に苦戦、家康を追い詰めた想定外 西軍(豊臣方)が内部崩壊していくなか、江戸城を出陣した家康は順調に東海道の西上を続けた。慶長五年九月九日に生誕地の三河岡崎城、十日に熱田、十一日には清洲城に入った。 家康の着陣を今か今かと待っていた東軍諸将は隣国の美濃赤坂に滞陣中だったが、この頃になって、家康は想定外の事態が起きていることにようやく気づく。 中山道を西上させた秀忠には真田昌幸を屈服させる任務をいったん与えたものの、戦局の急転を受け、決戦場の美濃に向かうことを優先させるよ