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NHK大河ドラマではとても放送できない…織田信長が徳川家康に下した「武田軍を皆殺しせよ」という知略 「高天神城の688人」を見捨てた武田勝頼の末路
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NHK大河ドラマではとても放送できない…織田信長が徳川家康に下した「武田軍を皆殺しせよ」という知略 「高天神城の688人」を見捨てた武田勝頼の末路
戦国最強と謳われた武田家は、なぜ滅亡したのか。歴史評論家の香原斗志さんは「長篠の戦いで敗れてから... 戦国最強と謳われた武田家は、なぜ滅亡したのか。歴史評論家の香原斗志さんは「長篠の戦いで敗れてから、滅亡までは7年間ある。滅亡の要因は、1581年の高天神城の戦いで、籠城する武田兵を見捨てたことだろう。この結果、家臣たちが次々に離反し、翌年には滅亡を余儀なくされた」という――。 徳川家康が最も苦しめられた敵将 徳川家康は武田氏に苦しめられた。家康が天下人になるまでの道程で、もっとも苦しめられた敵が武田氏であることは、あらためて指摘するまでもない。 元亀3年(1572)10月、家康の領国である遠江(静岡県西部)に攻め入った武田信玄は、家康方の城を次々と落とし、三方ヶ原合戦で家康軍を完膚なきまでに打ちのめした。家康はまさに絶体絶命のピンチに陥ったが、同4年(1573)4月、信玄が急逝したために助かった。 だが、家督を継いだ四男、NHK大河ドラマ「どうする家康」では眞栄田郷敦が演じる勝頼が手ごわか