エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験
自然界の「駆り立て」の連鎖 『愛しのアイリーン』を見て、僕は、幼少時に見たドキュメンタリー番組の衝... 自然界の「駆り立て」の連鎖 『愛しのアイリーン』を見て、僕は、幼少時に見たドキュメンタリー番組の衝撃を思い出しました。番組は食物連鎖を描いたものでした。ガゼルの母親が我が子を愛おしむ様子が描かれますが、直後にガゼルの子がライオンに食べられてしまいます。何と可愛相なのだろうと僕は思いました。 でも、そう思った矢先に、ライオンがお腹を空かせた子ライオンの母親だったことが描かれるのです。まさにそれが食物連鎖というものだ、という話なのですが、子供心にはこれは衝撃でした。ガゼルの子が哀れだというのは一つの視座ですが、別の視座に立てばライオンの子こそ哀れなのです。 自然全体すなわち存在界全体の摂理を見よ、と番組は教えていたわけです。全体から見れば、何かを可愛相だと思うのは「人間的な」つまり身勝手な感傷に過ぎません。ガゼルはライオンに駆り立てられますが、ライオンもお腹を空かせた子ライオンに駆り立てられま