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奥州藤原氏の滅亡〜藤原泰衡は、やはり「不肖の息子」だったのか
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奥州藤原氏の滅亡〜藤原泰衡は、やはり「不肖の息子」だったのか
文治5年9月3日 藤原泰衡が源頼朝に討たれ、奥州藤原氏が滅亡 文治5年9月3日(1189年10月14日)、藤原泰衡... 文治5年9月3日 藤原泰衡が源頼朝に討たれ、奥州藤原氏が滅亡 文治5年9月3日(1189年10月14日)、藤原泰衡が討たれました。源頼朝に屈して父・秀衡の遺言を破り、源義経を殺して、結局奥州藤原氏を滅ぼした不肖の人物として語られることが多いですが、実際はどうだったのでしょうか。 泰衡は奥州藤原氏3代秀衡の次男に生まれました。生年は久寿2年(1155)とも、長寛3年(1165)ともいわれます。次男ですが正室を母としたため、嫡男として扱われました。 元暦2年(1185)、平家が壇ノ浦に滅ぶと、源頼朝と義経の対立が表面化し、頼朝は義経追討の院宣を得て、その捕縛を諸国に命じます。一方で頼朝は奥州の秀衡に対し、東海道惣官の立場を楯に、「陸奥から京都へ直送していた貢馬や貢金を、今後は鎌倉で預かった上で送る」と無理難題を押し付けました。秀衡を怒らせるための頼朝の策でしたが、秀衡はこれを受諾することで、無