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道長の姉・藤原詮子の生涯|末弟の道長を可愛がり出世に大きく貢献した、一条天皇の母【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2
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懐仁親王を授かる 円融天皇の女御として、宮中での生活を送っていた詮子。天元3年(980)、天皇との間... 懐仁親王を授かる 円融天皇の女御として、宮中での生活を送っていた詮子。天元3年(980)、天皇との間に懐仁(やすひと)親王を授かりました。詮子は懐仁親王を溺愛したそうで、兼家も皇子の誕生を大変喜んだとされています。 また、当時は夫婦の間に生まれた子どもは、母方の親族によって養育されるのが通例でした。そのため、懐仁親王を天皇の座につけることで、兼家は外祖父として権勢を振るうことができたのです。何としても、皇子を擁立したいと考えた兼家と詮子。 次期天皇となった花山(かざん)天皇の後は、懐仁親王を擁立させるという約束を円融天皇と交わしたそうです。その後、花山天皇を退位させるべく、兼家は天皇に出家を勧めました。花山天皇の退位計画には兼家の次男・道兼(みちかね)も加わっており、彼の口車に乗せられた天皇は、出家せざるを得なくなってしまったのです。 花山天皇が出家したことで、寛和2年(986)、兼家と詮