エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント2件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
声と集団の難しさ - Freezing Point
「だれでも受け入れる集団」「全面受容」は、関係を分節する声を抑圧する。 あるスタイルの声しか認めら... 「だれでも受け入れる集団」「全面受容」は、関係を分節する声を抑圧する。 あるスタイルの声しか認められない(聞いていない)。 無能力者の受け入れは、存在を受け入れる代わりに、相手の声を拒絶している(参照)。 けっきょくは自分のほうが強いことを確認し、弱者の存在を全面受容することで、完璧な声がアリバイづけられる(弱者の声は存在のレベルにしかない)。 弱者本人も自分を正当化するのに、そういうロジックを使う(無能力な自分の存在を、自分の声のアリバイにする*1)。 知識人には、《つながり》をどう維持するかについては何の自覚もない。 自分たちの持ちよる声の態勢を疑わず、そこに問題の焦点があることに気づいていないので、彼らの提案は「自分」を自意識にしている*2。 声と集団の関係*3に気づいていない。 既存集団は、自分たちの声の態勢を決めてしまっている*4。 「私の集団こそが全面的に正しい」というイデオロ
2009/12/28 リンク