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徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由
豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして、小田原の後北条氏の攻略に成功したのは、天正18年(1590年)7月... 豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして、小田原の後北条氏の攻略に成功したのは、天正18年(1590年)7月のことである。このとき小田原攻めに加わっていた徳川家康に対し、秀吉がこんな言葉で関東への移封(国替え)を命じたという。 「関東を貴殿に与える代わりに、それまでの貴殿の領地はもらう。この小田原は東国支配の重要地であるから、家臣の中から信頼できる者を選んで守らせ、貴殿は江戸に本城を築かれるのがよろしかろう」 家康は、この言葉を聞いて愕然としたに違いない。江戸といえば、三河や遠江を本拠とする家康にとって、政治・経済の中心である京大坂から遠ざかるばかりか、当時の江戸は葦の生い茂る低湿地帯がどこまでも広がり、わずかに寒村・寒漁村が点在するだけの未開の地であったからだ。 このときの秀吉の命令は断固たるものではなく、家康にはこの小田原、または鎌倉のいずれかに本拠を置くこともできたという。しかし家康は