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大隈重信の政治的危機と財政をめぐる競合
明治6(1873)年5月に大蔵省事務総裁、10月に大蔵卿(長官)を兼務した大隈重信参議が、大蔵省を統轄し... 明治6(1873)年5月に大蔵省事務総裁、10月に大蔵卿(長官)を兼務した大隈重信参議が、大蔵省を統轄して積極財政を進め、いわゆる「大隈財政」を展開したと多くの研究が指摘してきた。また、この大隈が、大久保利通の強力なリーダーシップの下で、伊藤博文と共に「大久保政権」の一翼を担い、大久保・伊藤率いる内務省・工部省の政策展開を支えたともしばしば描かれてきた。 本稿は、かかる「大隈財政」像について、政治史的側面に焦点をあてて再検討を試みるものであり、特に、政府内での大隈の政治的位置も含め、財政権をめぐる大隈・大蔵省の政治・制度的問題に注目して考察した。 結果として、大隈の政治的行動に由来する不安定な立場や失脚危機と共に、太政官制潤飾(改革)を発端とする大蔵省の制度的不安定が継続して存在し、それらに起因して財政をめぐる競合が展開したことを解明した。すなわち、制度的に分担関係が曖昧となった正院(左院