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1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ
(日本考古学小辞典より) やや時代はくだりますが、確実な証拠が九州各地でみつかりました。(1)福岡県の... (日本考古学小辞典より) やや時代はくだりますが、確実な証拠が九州各地でみつかりました。(1)福岡県の板付(いたづけ)遺跡や(2)佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)もありました。 年代からというと、菜畑遺跡は今から約2700年ほど前のもので板付遺跡の水田を含む層(晩期終末)よりも、およそ100年以上さかのぼります。このこ とは、日本における水田稲作の開始が、従来考えられていた時期よりも、さらに200~400年も前だったことを意味します。 板付や菜畑における水田では、非常に整備された形で、水稲耕作が行われていたらしく、しかも同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。こうした点から、すでに縄文晩期には、大陸で稲作を行
2024/01/12 リンク