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山下達郎も西城秀樹も気づかなかった“奇跡”の名曲「かぎりなき夏」。世界的シティ・ポップ大ブームを呼んだ「滝沢洋一とマジカル・シティー」48年目の真実【最終回】 - ページ 3 / 4 - まぐまぐニュース!
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“お蔵入り”になった悲運のセカンドアルバム『BOY』 アイドルやタレント、歌手らに歌謡曲などの曲を提供... “お蔵入り”になった悲運のセカンドアルバム『BOY』 アイドルやタレント、歌手らに歌謡曲などの曲を提供する専業作曲家として活躍し始めた滝沢洋一に1981年頃、再び「ソロアルバム」制作の話が持ち上がった。それが、本連載Vol.1の冒頭にも登場した、幻のセカンドアルバム『BOY』である。 『BOY』の制作は、滝沢が契約していたアルファ系列の音楽出版社「ケイ・ミュージック・パブリッシング」ディレクターの故・高木淳が、「ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)」ディレクターの庵豊(いおり・ゆたか)に滝沢を紹介したことからはじまった。庵は、後に良品計画で「無印良品」の店内BGMを手がけたことで知られている人物だ。 81年秋、日本初のリゾートスタジオとして有名なキティの「伊豆スタジオ」(静岡県伊東市)にて、滝沢や参加ミュージシャン、庵・高木の両担当ディレクター、エンジニアの石崎信郎らと