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明智光秀 「本能寺」はカツラの恨みで決意したという説
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明智光秀 「本能寺」はカツラの恨みで決意したという説
歴史上の人物について私たちが持つイメージは、往々にして学校で習った内容や、小説やテレビドラマなど... 歴史上の人物について私たちが持つイメージは、往々にして学校で習った内容や、小説やテレビドラマなどで描かれる姿そのものだったりする。一方、歴史研究の世界では新たな史料が発見され、これまでの“常識”が覆ることがある。明智光秀はライバル大名を次々と滅ぼし、比叡山延暦寺などの寺院まで攻めて天下統一を目指した織田信長の家臣。天正10(1582)年、京都本能寺に宿泊中の信長を襲って死なせ、謀叛人として名を残した。歴史作家の桐野作人氏が光秀の実像について指摘する。 * * * 明智光秀が主君・信長を討った「本能寺の変」。光秀が謀叛を起こした動機は謎で、「怨恨説」「義憤説」「野望説」など諸説ある。 そんな中、私はある史料に注目している。それにより、これまで知られていた光秀像とは異なる一面を垣間見ることができるからだ。 信長の家臣・稲葉一鉄の子孫らが書き残した『稲葉家譜』。そこには光秀を「本能寺の変」へと駆