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【正木利和のスポカル】工藤公康も山本浩二も王貞治も…広島カープの恩人は球界の寝業師(1/2ページ)
もの心がついたころに、広島カープが初めてセ・リーグのAクラス(3位以内)に入った。僕が小学校3年... もの心がついたころに、広島カープが初めてセ・リーグのAクラス(3位以内)に入った。僕が小学校3年生のころのことだ。 「あんた、覚えとる? あのころ、自分のグラブに『安仁屋』いうてマジックで書いとったよね」 いまは亡き母に、おとなになってからもよくからかわれていた。「安仁屋」はもちろん当時、外木場と並んで2枚看板だった広島の投手である。 球団創立の1950年以来、18年連続Bクラスだった、あの弱いチームが1968年にリーグ3位になったことは、カープを応援していた者たちにとって、とてつもなく大きなできごとだった。 もちろん、その快挙を成し遂げた根本陸夫(1926~99年)という監督のことは、いつまでもカープの大恩人だと思っている。 1975年、カープは初めてリーグ優勝を果し、その後、79年、80年と日本シリーズで近鉄を下して球界の頂点に立った。まさに赤ヘルの黄金期である。 その基盤を築いたのは
2016/10/20 リンク