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【関西プチ遺産】大阪最古の木造建築「孝恩寺観音堂」…地元では「木積の釘無堂」
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【関西プチ遺産】大阪最古の木造建築「孝恩寺観音堂」…地元では「木積の釘無堂」
『和泉名所図会』(1796年)には「木積(こつみ)観音 木積村にあり。行基菩薩(ぼさつ)、畿内に... 『和泉名所図会』(1796年)には「木積(こつみ)観音 木積村にあり。行基菩薩(ぼさつ)、畿内に四十九院を建給ふ時、其材木を和泉国木嶋(このしま)の杣山(そまやま)より出す。当境は其木を積置く所也。此ゆへに、木積といふ。観音寺に、行基みつから作り給ふ観世音を安す。」とあり、観音寺と本尊の由来を記す。一方、地元では観音堂を「木積の釘無堂(くぎなしどう)」と呼んでいる。釘無堂と呼ばれるのは、建物に釘が使われていないためである。 観音寺は平安時代初期までは七堂伽藍(がらん)がそろっていたようであるが、その後、度々の戦火に巻き込まれ、ついには天正13(1585)年、豊臣秀吉による紀州根来寺(ねごろでら)攻めの際に、この観音堂以外の全ての建物が消失してしまった。 『貝塚市史』によれば、観音堂は桁行(けたゆき=正面)、梁間(はりま=側面)とも42尺4寸(約12.85メートル)の、寄棟造(よせむねづくり