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SamuraiWorld_歴史再発見_鹿児島に寺院がほとんどない理由
明治維新の歴史の中であまり語られない歴史の暗い一面としての廃仏毀釈は、薩摩の地では確実にその傷跡... 明治維新の歴史の中であまり語られない歴史の暗い一面としての廃仏毀釈は、薩摩の地では確実にその傷跡は各地に散見されます。 薩摩での廃仏毀釈運動は、薩南学派と呼ばれる朱子学から、国学の台頭の動きの中で起こってくるわけです。 徳川家康が藤原惺窩の勧めで林羅山を幕府御用達の学者として抱え、朱子学を幕府を支えるための思想として利用していきます。しかし、同時に《支配の正統性》の問題を朱子学の思想そのものの中に萌芽として抱え込んでいたので、朱子学をまじめに勉強すればするほど、《支配の正統性》が気になり出します。 かくして朱子学から国学へと思想の繋がりが江戸時代を通じて起こってくるのも自然のことだったと言えます。 薩南学派と呼ばれる筋金入りの朱子学の伝統があった薩摩の地に、国学へ転向していく下地は十分にあったわけです。 薩南学派は、山口生まれの臨済宗の高僧桂庵玄樹が薩摩の龍雲寺の玉洞に招かれ、薩摩の地に下
2015/01/26 リンク