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えどさき街並みの歴史~江戸崎発展期
江戸崎まちなか地区が栄えるようになり、豪商・豪農など広い意味での町民による独特な文化が花開いたの... 江戸崎まちなか地区が栄えるようになり、豪商・豪農など広い意味での町民による独特な文化が花開いたのは、近世のことでした。水辺には、川船を用いて米や醤油など物資が集積し、運び出される港と、周辺の都市的機能を合わせもった「河岸(かし)」が多くできました。 江戸崎の人口は、このころ「戸数100戸を超える」という説から類推すると約3,000人程度だったと思われます。水運は、江戸時代初期に利根川の流れが銚子口に瀬替え(東遷事業)されたことから、江戸崎入り~霞ヶ浦~利根川~江戸川~江戸という内陸運河ができあがり、このルートで大量の物資運搬を安定して行うことが可能となったのです。 【画像左】「天保巡見日記」より「鍋屋河岸」【画像右】大正初年の鍋屋河岸】 江戸崎は、内藤氏、青山氏、丹羽氏などの大名領や土井氏、牧野氏の佐倉藩領・天領・旗本領を経て、18世紀から明治維新まで関宿藩領となりました。18世紀半ば以降