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瓜生島の沈没
解説文には「戦国時代に南蛮船の港町としてさかえ、地震により一夜にして別府湾に沈んだ瓜生島」、とあ... 解説文には「戦国時代に南蛮船の港町としてさかえ、地震により一夜にして別府湾に沈んだ瓜生島」、とあります。古地図を見ると、南本町、中本町、北裏町という町名まで載っています。「豊府聞書」という書物によると沈んだ状況は次のようです。 瓜生島は府内の海に面し、日本各地の船で昼も夜もこみ合う大きな港町であった。この島は府内の町から31町40間(約3、5キロ)、現在の大分市塾豪町の北20余町(約2.2キロ余り)にあった。 慶長元年(その年の1O月に元号がかわったため正確には文禄5年、1596)閏7月12日午後2時すぎ(または4時ごろ)諸国に大地震があって、土地が裂けたり山くずれがおきたりしたが、しばらくしてやんだ。住民がようやく安心していたところ、海が鳴動をはじめたので,人々は四方に逃げ、山野に避難した。府内の町でも水難をおそれた人々が高台になっている勢家町に集まった。 瓜生島の古地図 幕末期の「豊陽
2016/04/18 リンク