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映画の國 || コラム ||『日本映画の玉(ギョク)』鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇] Text by 木全公彦
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コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇] Tex... コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇] Text by 木全公彦 1963年に大映を退社した中島源太郎は、まもなく企画会社〈グエン・プランニング・センター〉とアニメーション製作会社〈日本動画株式会社〉を設立する。〈グエン・プランニング・センター〉の社章の〈G〉は、〈源太郎〉のイニシャルの〈G〉でもあった。 会社を二つに分けたのは、おそらく税務上のことを考慮したものと思われるが、実質的には同じオフィスである。設立当初は銀座の松屋の裏手にあった事務所は、すぐに六本木に移転する。六本木交差点にあるアマンドの横の芋洗坂を下ったところを、すぐに右に曲がったところにあるマンションの一室だった。地下にはアニメーション撮影用のスタジオが作られた。1966年のことである。 日本動画は中島源太郎が取締役代表で、役員には岩波映画のキャメラマンだった岸本