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ステンドグラス:[慶應義塾]
福澤諭吉先生の蘭学塾創始から数えると、慶應義塾は今年で155年となる。 幕末の安政年間から現代の平成... 福澤諭吉先生の蘭学塾創始から数えると、慶應義塾は今年で155年となる。 幕末の安政年間から現代の平成まで、義塾で学ぶ塾生数はどう推移したのか、また女子塾生の登場は、いつだったのか、“数”にスポットを当てて変遷をたどった。 1872-77(明治5-10)年頃の塾生たち 福澤先生が築地鉄砲洲の中津藩邸で蘭学塾を開いたのは1858(安政5)年のこと。当初は藩士の子弟に蘭学を教える程度で、その数も多くなかったと思われる。しかし安政の五カ国条約締結後、米英との関係を重視した福澤先生が教授内容を蘭学から英学に切り替えてからは、塾生は徐々に増え、1867(慶応3)年頃には80~100名に達していた。 その後の戊辰戦争中に塾生は減少したものの、先生はそれを一時の騒乱にすぎないとして、芝新銭座の塾舎の普請を進める。1868(慶応4)年4月には、塾名を慶應義塾とし、戦争が終結して明治になると、先生の予想通り塾