エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
大友戦記 神角寺の戦い
1.平氏の使者が来る 寿永2(1183)年8月下旬、平氏の使者が、豊後国緒方郷(豊後大野市緒方町)に住... 1.平氏の使者が来る 寿永2(1183)年8月下旬、平氏の使者が、豊後国緒方郷(豊後大野市緒方町)に住む緒方三郎惟栄(これよし)の館を訪れた。 館は水田地帯が広がる緒方平野の中心に位置し、前には緒方川(大野川の支流)が流れ、近くには東洋のナイアガラとして有名な「原尻(はらじり)の滝」がある。 緒方館を訪れた平氏の使者は、惟栄のかつての主人、故平重盛の次男資盛(すけもり)であった。 重盛は、武士として初めて太政大臣になった平清盛の嫡男であったが、4年前に病死し、家督は清盛の三男である宗盛が継いでいた。 清盛の死後、源氏の木曽義仲から都を追われ、西国武士を頼りに大宰府まで逃れた平氏であったが、味方する九州の武士は少なかった。 宗盛は、九州武士団に影響力のある惟栄を味方に付ければ、何とかなると考え、 「故重盛殿の息子が頼めば、惟栄も断れまい・・・」 と、資盛を豊後へ送ったのであった。 惟栄は、使