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『人民中国』
秋田県は、西は日本海、東は山地の自然豊かなところである。2005年11月初め、私はこの秋田を訪れた。奥... 秋田県は、西は日本海、東は山地の自然豊かなところである。2005年11月初め、私はこの秋田を訪れた。奥羽山地の秋は深まり、山々は紅葉に染められていたが、私がここを訪れたのは、風景を愛でるためではない。中国の農村で、3代にわたって農民に面倒を見てもらった1人の日本の傷病兵を訪ねるためだった。 中日関係の中では、情けと恨み、恩と仇が、悲喜こもごもの無数の物語を生んできた。河南省南召県太山廟鎮梁溝村の農民、孫邦俊さんとその一家は、3代にわたって、日本の傷病兵の石田東四郎さんを47年間も世話して来たが、それもその中の一つである。 1947年の秋、孫さんはいつものように、隣村の黒石寨に商売をしに行く途中、ぼろぼろの衣服を着て、全身垢だらけの物乞いに出会った。聞けばこの男は日本の傷病兵で、1年以上もさまよっているという。 当時、抗日戦争は終わったばかりで、太山廟鎮の多くの村々は、日本兵の蹂躙に遭ったた